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オーナー手記

「並木ハウスと手塚治虫」

手塚先生が3年間お住まいになった並木ハウスと、母から聞いた雑司が谷時代の手塚先生の暮らしについてご紹介したいと思います。
並木ハウスは、祖父信次が昭和28年に建てたもので、雑司が谷鬼子母神参道にあります。祖父は両国で関東大震災に被災、雑司が谷に移り住み、昭和10年頃に「東京文化教材社」というゴム動力で飛ばす模型飛行機の会社を始めました。現在、並木ハウスのある場所に工場をつくり、参道沿いの長屋(並木ハウスアネックスと称していますが、実はこちらの方が古く昭和7年築の建物です。)に店と住居を構えました。戦時中は航空青年育成の目的で小学校正課として模型飛行機制作が採用されたため大変忙しかったようです。戦後、事業規模を縮小、工場を閉鎖後に建てたのが並木ハウスです。先生は先に入居されていた雑誌「漫画少年」副編集長の加藤宏泰氏の紹介で越して来られたと聞いています。

次に、母から聞いた手塚先生の並木ハウスでの生活と人柄を忍ばせるエピソードを紹介したいと思います。
ご実家宝塚での生活から東京のアパート暮らしに変わった生活変化には、先生が戸惑った点も多かったようです。
当時、東京のアパート暮らしでは銭湯が普通だったのですが、先生は銭湯になじめずいつも口になさっていたようです。銭湯嫌いは母の頭に強くい印象付けられていたようで、先生が初台に移られた後で、母が並木ハウス宛に送られてきた郵便物を初台に届けた際、どんなお風呂の家に引っ越されたのかと、初めに「お風呂場見せてください。」と言って風呂場を見せてもらったといっていました。
また、母は先生に頼まれて朝食を出していたのですが関西生まれの先生は東京の朝ごはんの定番「納豆」、がダメで献立に苦労したとのことです。
手塚先生の人柄を忍ばせる話としては、売れっ子で徹夜の連続だった先生に母が「どうして、そこまで根を詰めてお仕事なさるのですか。」と尋ねたところ「子供たちが僕のマンガを待っているんだよ。」とお答えがあり、母はこの言葉に大変感動したようで、私は何度も話して聞かされました。

並木ハウス管理人
砂金宏和

 

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