並木ハウスの歴史
登録有形文化財である並木ハウスと並木ハウスアネックスは、子育ての神様として知られる雑司が谷鬼子母神堂の参道にあり、参道には江戸期より続くけやき並木が残されています。
周辺地域の大部分は、東京大空襲で焼失してしまいましたが、この一画は奇跡的に被災を免れました。
こうした街の特性を活かし、歴史資料としての価値も含め、保存価値は高いと判断。
平成20年には、並木ハウス(昭和28年築)と並木ハウスアネックス(昭和7年築)の修復をし、再生させました。
再生では、綿密な計画を立て実行しました。
構造的な補強など建物としての安全性を強化、時代にあった機能の更新をしながら、文化・歴史的な価値を保つことを大切にしました。
さらに、現在も人が住む賃貸アパートとして住人のいる建物なので、住居者の生活を保ちながらの“居ながら改修”にこだわりました。
並木ハウスは、手塚治虫氏が住んでいたことでも有名で、手塚氏は大阪から上京しトキワ荘に住んでいましたが、当時としては新築でレベルの高かった並木ハウスに先に入居していた『漫画少年』副編集長加藤宏泰氏の紹介により入居、昭和29年からの約3年間住んでいました。
また同時期に、当時早稲田大学の学生でのちに世界的な建築写真家となる二川幸夫氏も住んでいた建物として、戦後の居住環境・住宅史の資料として当時の面影を保存しています。
施設概要
建物周辺の概況
並木ハウスは、2018年に重要文化財に指定された雑司が谷鬼子母神堂の参道中ほどの路地を15mほど入ったところに位置します。
鬼子母神堂は江戸期、江戸郊外の行楽地となっており、参道のケヤキ並木は、江戸期からの樹木4本が都の、その他が豊島区の保存樹木となっています。
このエリアは、江戸期~大正期は門前町として茶屋などが立地していました。
しかし、関東大震災後は、下町の被災地から郊外地であった雑司ヶ谷(豊島郡高田村)へ移り住む人が多くなったことで、2階建の並木ハウスアネックスをはじめ、一階が店や作業場、上階が住居といった建物が立ち並んでいました。
建物の概要
〇建築主
模型型飛行機の製造販売を行い工場としていた敷地の持ち主。戦後に工場を閉鎖し、昭和28年に並木ハウスを建設。
〇建物概要
木造モルタル造、総2階建て、瓦葺
・設計:ユニオン工務店
・施工:不明
〇改修履歴
昭和40年頃-セメント瓦劣化により、釉薬瓦に葺き替え、外壁モルタル吹替え
平成21年(修復工事)
・外部:モルタル吹替え、鉄部(ケレンの上、当初の色に塗替え)、木製サッシュの更新(ガラスはオリジナルを使用して木製サッシュを新規製作)
・耐震補強(室内筋交い設置、壁の補強及び耐震壁増設・・・一階専有部で実施)
・内部:共用部(木部塗装、漆喰塗直し、配線スペース設置、室名サイン、トイレ衛生器具更新(壁はオリジナルタイル存置)、洗濯室をシャワー室に変更(床・壁タイル存置)
・専有部
1階部分:耐震補強のため大壁構造に変更、入居者入替時に内装リノベーション
2階部分:手塚氏・二川氏が居住していたことを踏まえ、漆喰の塗直し等修復的な内容で保全。修復困難なモルタルタイル貼流しはシンク部ステンレス貼)
建物の価値
並木ハウスは、戦後期の住宅窮乏時期にバラック住宅の次の世代として大量供給された風呂なし・トイレ共同のいわゆる木賃アパートです。
木造モルタル仕上げで、型ガラスの入った木製サッシュの窓に鉄製の手すりといった外観は木賃アパートの典型的な形ですが、内部は、典型的な木賃アパートが入口玄関で上下足を履き替え、半間の廊下に3~6畳の均一な部屋が並ぶ形であるのに対し、並木ハウスは、各室玄関まで下足履き、1軒幅の中廊下(1階部分は土間コンクリート、階段・2階廊下は人造石研ぎ出し仕上げ)に、床の間付の4.5畳、6畳、3畳+6畳と室(住戸)タイプにバラエティを持ち、トイレ・洗濯室(修復でシャワー室に変更)・トイレ等ゆとりを持った共用部があり、同時期の木貸アパートとしては、高い仕様の建物となっています。
木製サッシュや窓手摺等も、よい状態で保存・修復されています。
文化財登録に際しての『並木ハウス所見』(2017)より
所在地
雑司ヶ谷鬼子母神堂の参道の路地奥に西面して建っています。